「ビスクドールの卵」管理人の こやぎ です。
今日は 本当にあった怖い話をしたいと思います。
T大学付属病院 まさかの再会 そしてセクハラの代償
神奈川県秦野市にあるDr.ヘリがあることで有名な某付属病院に勤務していた時のことです。
勤務していた…と言っても 仕事が過酷でその上、イジメにも遭っていたのでわずか4ヶ月しか続きませんでした。
病院は簡単に辞めさせて貰えない
基本 私はそこから何かを学び取るまでは自ら辞めない主義なのですが、全く合わないと思ったら長居は無用、スッパリ辞めてくる性格です。
実は前日まで同じ伊勢原(同じ駅なのですが、道路を隔てて秦野市と伊勢原市に分かれています)にある市民病院に1週間だけ勤務していました。
市民病院も陰険で 8時間の勤務中、一回もトイレに行くことを許されないと言うイジメに遭い、堂々とそのイジメを上に報告して辞めてきました。
「改善します」と言われても院内にはびこるイジメ体質というのは簡単には変わらないものです。
こちらはキチンと辞めてきたつもりでしたが、実際に退職処理はして貰えておらず市民病院とも揉めました。
人手不足の要因のひとつにはイジメもあると思います。
そして、そのイジメを見て見ぬ振りをして改善しようとしない上司。
注意して古株にヘソを曲げられたら仕事が回らなくなるから注意も改善も出来ない…悪循環でしかありません。
どちらの病院勤務も私にとって思い出したくない過去でしかありません…
市立病院とT大学付属病院
実はどちらも面接を受けていたんです。
そして先に採用の連絡を頂いた市立病院の方に勤務したのですが、働き出して3日目くらいにT大学付属病院からも採用の連絡がきました。
そんな背景もあり、強気でした。
ま、乗り換えたT大学付属病院でも同じように陰湿なイジメがあったのですが…
T大学付属病院で唯一救いだったのは、同じ日に入った同い年の同僚が居たということでした。
2人だったから、それでもなんとか4ヶ月も続けられたのだと思います。
同じ環境下で辛い病院勤務を乗り越えたからこその仲間で、そして今でも続いている友人です。
病院からの脱出
決行したのは、夜勤明けの8時半。
そーっと自分のロッカーの大量な荷物を、同僚と一緒にお互い交互に駐車場に停めていた車に運び出しました。
そして、荷物を運び終えたその足で地下にある事務局へ辞表を出しに行きました。
病院は年中人手不足。
またいつものようにこの日も夜勤明けなのに交代に来ないセンパイお局達に代わって私達をいいように言いくるめて続けて働かせるつもりでした。
引き止められるのを今回は確固として断り、追いかけて来るのを振り切り、モーニングのコーヒーで祝杯をあげたのは角のサイゼリアだったかな。
畑違いの病院勤務
私には畑違いの病院勤務でした。
その1ヶ月前まで、私はこの某付属病院の近くにあるプレス加工自動化装置メーカーの設計部に派遣社員として2年勤務していました。
3年目に突入すると言う3月。
「 4月からは正社員でやらないか」とこの会社の総務よりお声を掛けて頂きその予定でいました。
にも関わらず
「言ったことは口約束、まだ正式に書面で契約書を交わした訳ではない!なので社員の話は無かったことに」と裏切られたのが3月28日。
そして3日後の3月末、呆気なく解雇されました。
正社員になる話はメーカーから派遣先にも通っていたので、派遣の契約は3月末で契約終了してしまっていました。
私と派遣会社との契約終了は無かったことに出来ても、次の仕事はこれから手配してもらうことになるため、暫くの間の私の仕事は未定。
プー太郎になってしまうことになりました。
派遣から正社員の話が、急転直下無職。
理不尽な大どんでん返しに無茶苦茶腹がたって暫く腹の虫がおさまりませんでした。
しかし、生活していかなければならないので無職になる訳にはいきません。
この時は今振り返ってみても、人生ドン底だったんです。
やる事なす事裏目裏目に出てしまい一挙に不が集中して訪れました。
不の連鎖というのはこんな状況を言うのかと思わずにはいられませんでした。
鳥取に嫁に行く事を止め、彼と別れた。そして入院していた母が亡くなり、続いて祖母も亡くなった。
頼りにしていたおばさんが立て続けに3人亡くなり頼る人も深い話を相談できる人も全く居なくなった。
2人分の入院費に葬式代、お墓代…自分の病院代…休みたくても休めない状況でした。
その為、すぐ近くで求人募集していた市立病院へ、続いて某大学付属病院に考えもせずしがみついた訳ですが、そこでは陰湿なイジメが待っていた。
そもそも、夜勤なんて聞いてないし〜!
生まれて初めての夜勤勤務
世の中の夜勤勤務の方、心より尊敬致します!
私はお日さまと同じサイクルの生活体系が自分には向いているとつくづく思い知らされました。
夜は寝るもの。
夜更かしと夜勤では訳が違いました。
夜働いて朝…眠れず、結果不眠症となり身体を壊し戻すまでに暫くかかりました。
夜勤明け…陽が昇ってくるとやっと帰れる!と小躍りしソワソワします。
夜勤明けの朝8時半に自分が帰れるためには、当然次の人が出勤して来なければ帰れません。
でも、来ない。
来る気配がない…
「交代の先輩が風邪で休みだから夕方の夜勤担当者が来るまで引き続き勤務をしてもらうしかない」
なんて酷すぎた。
「規定の残業代は支払うから問題ないよね」
なんて、夜勤したことのない人のセリフだよ。
毎回毎回、新人の私たちが夜勤の日に限って都合良く風邪を引かれて交代者が出勤して来ない、なんて わざと としか思えなかった。
上司も総務部も分かっていた。
にも関わらず、注意もせず見て見ぬ振りをして注意もせずやりたい放題にさせている。
交代の自分の仮眠時間にも仮眠させて貰えない上の翌朝交代者が来ないための超過勤務 なんて、耐えなくていいと思った。
夜の8時から翌朝8時を超えて昼を超えて14時まで拘束される。
実質30時間不眠の状態。
そんな境遇を余計にプレス加工自動化装置メーカーの設計部長と総務部長を恨みました。
そして、別れた彼に連絡してしまいそうになる自分の弱さとも葛藤した。
雇用出来なくなった本当の理由
追い出された派遣先(プレス加工自動化装置メーカー)の総務に友人がいたので、私を社員として雇用出来なくなった本当の理由が分かりました。
私を表向き「業務縮小のため」と言う理由で辞めさせたのに、その翌日設計部長の愛人を私のポジションに入社させていたとのこと。
実は社員の話をお受けした後、設計部長から遠回しに‘お誘い’があったように思います。
まさかね…と気付かないフリしてかわしましたが、その後解雇されましたから、誘いを断られて面白くなかった?と内心思いました。
美輪明宏のコンサートに行く
そんな最中、美輪明宏のコンサートに行きました。
コンサートは私がまだ設計部の派遣だった時に美輪明宏ファンの知人に誘われていたもので以前から既に決めていたものです。
美輪明宏さんのコンサートの最中も私はコンサートは全くの上の空で
理不尽に派遣を辞めさせられ、夜勤の病院勤務でイジメられ、踏んだり蹴ったりだと今の境遇を恨んで悶々としていました。
おやめなさいっ!!
その時美輪明宏さんがトークで
おやめなさいっ!
って叫んだんです。
悪口を言われたら柳に風と受け流す。
自分が清らかで優しければ「念返し」で悪い念は相手に戻る。
と仰しゃって、ビックリしました。
内容もそうですが、ドスの効いた大きな声にもビクッとしました。
もう、今この瞬間から酷いことをされた人間を恨んだりして過ごすなんて無駄で勿体無いことはおよしなさい。
自分がそんな醜い心を捨てて過ごしていたら必ず、遅くない時期に相手にはそれ相当の罰があなたが何もしなくても下されます。
というような内容のことをお話されました。
なんだか私の心の中を見透かされているようで怖かったです。
こんなに会場に観客が居るのに…まさか私へのアドバイス??
まさかね…でも、
私は割と素直なので、美輪明宏さんのアドバイス通り極力、正社員話をセクハラで白紙にした設計部長を忘れるよう努力しました。
相変わらず病院の先輩方のイジメは続きましたが、設計部長のことは考えないよう努力しました。
退職や部署変えを申し出ても却下され、逆に辞められないよう自分たちに監視まで付けてしまう厄介な付属病院を、同じ日入社の同僚と
「どうしたら辞められるか」
目の前の問題に集中しました。
そして2人が同じ夜勤明けの日に決行しよう!と実行しました。
まるでドラマのような1日
思い返せばスリルとサスペンス。
まるでドラマのような1日でした。
ササッと人知れず自分のロッカーの私物を纏めることが出来ないんです。
夜勤用のスエットの着替えや下着、替えの制服、流しに置いてある歯磨きセットにフェイスタオル、一泊旅行くらいある沢山の荷物を
常時先輩が誰かしら居る中、どうやって運び出すか…
1番いいのは全て捨てるつもりで置いてくる。
そうすればよかったなと今は思います。
でも「取りに来い」を向こうの言い訳にされるのは嫌だったんです…あの時は。
明日の朝になれば、自由!それだけを思っていたらその日のイジメも夜勤も苦では無かった。
深夜2時過ぎ救急の通報が…
そんな夜中、救急の通報が入りました。
救命なので毎日救急は入りますが、今回はドクターヘリで患者が運ばれて来ました。
深夜2時過ぎ小田原の道路でバイクに乗ってトラックに跳ねられた高校生男子でした。
緊急オペされましたが、意識不明の重症です。
警察が身元確認し、身元が判明したのは早朝。
ご両親が駆けつけて来たのは8時くらいでした。
病院はイジメも辛かったですが、救急は辛い。
炎天下の車の中に放置して発見された子供、旦那に刃物で刺されて包丁が刺さったままストレッチャーで運ばれて来る主婦…
炎天下の車の中に置き去りにしたのは母親なのにドクターに医者なんだから助けろ、と喚く…
私には耐えられない現場でした。
あと30分でここから脱出できると思っていた8時過ぎ、高校生の両親が到着しました。
え…?
固まりました。
あの設計部長が私の目の前に居たんです。
美輪さんの言葉が本当になった瞬間でした。
Dr.ヘリで運ばれて来た少年は設計部長のひとり息子、だったんです。
そして私はその30分後、同期入社の彼女とこの病院を逃げるように辞めて来たのですが、最後の日にそんなことが起きた偶然にただただ美輪さんの言葉を信じるしかありませんでした。
その後…
設計部長のご子息は意識不明のまま翌日亡くなられ、その後奥様と離婚されたそうです。
私をクビにすると聞いて私を庇ったがためにシンガポール支店へ転勤させられた課長が、設計部長として戻って来られたと聞き、胸のつかえが取れました。
設計部長はものすごく大きな代償を支払う羽目になったのだと思います。
本当にあった怖い話です。